今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

私が食べた本たち(2018/12)

12月に読んだ本の備忘録。諸事情により年末年始も入院を余儀なくされているため、かなり抜け漏れがあると思う(どんな本を読んだか忘れちゃう)。

しんがり

自主廃業は、なぜ起きたのか? 1997年の山一證券の自主廃業は、多くの人にとって青天の霹靂だったそうで、当の社員ですら日経新聞を通じて廃業の事実を知ったという。

本作は、廃業決定後、再就職の時間を投げうってまで、自主廃業の原因究明に尽力した12人のしんがりにスポットライトを当てた作品。昭和的企業物語は嫌いじゃないので割と期待感を持って読んだんだけど、とにかく登場人物も多く、そして部署名がややこしさの極みで、ほとんど内容が頭に入ってこなかった…。途中、止めてしまってたからなおさら。

ただ、山一證券っていわゆる昭和的大企業の典型だろうから、そういう意味で隔世の感があり、一歩引いた目線から眺めるおもしろさはあった。上司の言うことは絶対であり、上のためなら全てを捧げるという企業戦士たちの盲目な姿勢が、自主廃業を生んでいったのだろうな〜。

あと悪玉とされている行平会長とか、画像検索してみると、もう妖怪って感じがする。昭和の政治家とか、顔面の迫力凄まじくて味わい深い。

ポンコツズイ

ポンコツズイ 都立駒込病院 血液内科病棟の4年間

ポンコツズイ 都立駒込病院 血液内科病棟の4年間

100万人に5人の割合で発症するとされる「特発性再生不良性貧血」患者の闘病記。筆者は、フリーランスでアパレル雑貨の卸売を営む33歳の女性。国内外問わずパワフルに仕事をされていた方なんだけど、闘病中の肝の座り方に恐れ入った。

たとえば、入院直後に担当医になった先生は、見るからにおどおどしているタイプで、説明もピント外れ、採血や点滴などの処置も決してうまくはなかったという。僕は人より病院にお世話になる機会が多いと自負しているが、自分だったらこの時点で担当医の変更を申し出るだろう。

だって、自分の命や身体を預けるとき、時の運やめぐり合わせで左右されるなんてことに耐えられないから。そこで、面倒な患者と思われたって構わない。でも、本作の主人公は「私だって患者初心者」と、担当医と一緒に成長していこうと考える。

自分の器もたいがい小さいと思うが、この人の器の大きさは異常。つるとんたんぐらいあると思う。だからだろうか、登場する友人たちとのやり取りを深い絆を感じさせ、ROOKIESもびっくりなぐらいに周囲が行動してくれる。こんな友達欲しいな〜と思ったけど、いやいや筆者が人格者であるからこそだな、と思う。

1点、装丁だけは意味不明だと思った。Kindleで購入したから紙版で見ると印象が変わるのかもしれないけど、この表紙、学研の図鑑シリーズ的なものにしか見えなくないか? なぜ、臓器のイラストにしたのだろうか。イラストレーターさんが、実は筆者の友達とかそういうこと? それぐらい強い理由がないと、どうにも解せない…。

うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間

漫画『3月のライオン』の監修者としても知られるプロ棋士先崎学のうつ闘病記。僕は恥ずかしながら知らなかったのだが、筆者は過去に『週刊文春』や『週刊現代』などでも連載を持っていたそうで、将棋界随一の文筆家としても知られているんだとか。読み始めるとそれも納得で、2時間程度でスイスイと読み終えてしまった。

この人の文章、めっちゃ好き〜って思った! 文章から愛嬌がにじみ出ている。

「なるほど人権というのはこういう時のためにある言葉なんだなあと思った」

「私のことを嫌ってる棋士が、心の中でニンマリする姿が浮かんで口惜しく、小一時間そのことばかり考えていた。私は看護師さんにこのことをはなした」

「私は案山子のようにまったく動けないでいた。あまりにも異様だったのだろう。私の責任であるにもかかわらず、もう一杯弁償してくれた。アイスコーヒーはおいしかった。煙草もおいしかった」

「そのうちにひとつ楽しみを見つけた。図書館には株の雑誌のバックナンバーが充実しているので、バブル崩壊リーマンショックの直前の号などを読んで『なにアホなことをいってるんだ』と笑うのだ」などなど。

お気に入りの一文が、そこかしこに見つかった。いずれも大げさすぎず、かといって控えめすぎず、自身の感情に対してこれ以上なく適切な言葉をピタリと選んでいるんだろうな、と思った。だからこそ、純粋にうつ病を知るための教科書的作品としても極めて有効だ。ただ、僕にとっては読んでいると「ふふふ」と口角が上がってきてしまう極上の娯楽作品。過去の著作も読んでみよっと。

在宅無限大

訪問看護師たちへのインタビューをもとに、現代における「死」ひいては「生」にまで肉薄しようとする一冊。「看護師さんと言えば病院にいるものでしょ〜」と思い込んでいた自分にとっては、在宅医療という世界をビビッドに知れるという意味でも興味深かった。

訪問看護の特徴の一つとして、患者により看護の内容を柔軟に変更できるオリジナリティの高さがある。そのため、訪問看護の世界に「正解」は存在せず、看護師は事態に直面し、その都度柔軟に応答することが求められる。「こういう決まりだから」で話し合いは終わらない。

一方で、病院における看護師と患者の関係は極めて均質的だ。良い悪いの話ではなく、病院という大きな生態系を駆動させるためには、効率化のために看護師も患者も匿名化することが求められるのだろう。病院とは「管理」のための場所で、そこに個人と個人の関係は必要ないのかもしれない。

今、僕は久しぶりに長期の入院を余儀なくされているのだが、看護師や医師とのやり取りの中で、どうにも居心地の悪さを感じることが多かった。その理由は、こちらは相手を顔の見える個人として接しようとしているのに、看護師の側はあくまで「患者」としてしか接しようとしていなかった、そのズレがあったからだと膝を打った。

もちろん、個人対個人の関係性を築く努力をしてくれる方もいたが、現状の枠組みの中では無理してもらわないと成立しないと感じた。訪問看護を知ることで、当たり前に思っていた病院看護の世界を自分なりに捉えられたことは大きな収穫だった。

ほか、訪問看護の存在により、現代における「死」そして「生」が新たに発見されている点には非常に驚いた。訪問看護師の主戦場は「家」だ。家とは患者にとって生活の場であり、その人の固有性が最も色濃く反映された場所の一つと言えるだろう。そんな場における主導権は当然患者の側にあり、看護師は患者の「生活における快」や「願い」を確保する存在となる。

たとえば、患者が煙草を吸いたいと言えば、看護師はそのリスクを患者にわかってもらった上で、喫煙を決して止めない。たとえば、寝たきり患者が外に出たいと言えば、外に出るためのプランを患者に提案する。

僕が当たり前だと思っていた病院死では、死期が近づくにつれて患者は衰弱し、その期間はぽっかりと生活と分断される。はたして、そこに「快」はあるのか?

訪問看護師の存在は、自宅での「死」を可能にした。それは単に場所が変わっただけの話ではない。自宅死というのは、「死」を生活の中に組み込むことを可能にし、楽しく自然な形で人生を終えることを可能にしているのだ。新たな「死」の形の発見。悲痛で苦しいものとしか思えなかった「死」が少しだけ身近に感じられるようになった。