今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

私が食べた本たち(2019/01)

いつの間にか2月すらも終わっていたけど、1月に読んだと思われる本のまとめ。全部おもしろかった。

ベルリンは晴れているか

ベルリンは晴れているか (単行本)

ベルリンは晴れているか (単行本)

前作『戦場のコックたち』が直木賞候補にも選ばれた深緑野分さんの最新作。帯には「歴史ミステリー」とあり、確かに「殺人犯は誰だ?」というミステリーの要素はあるのだが、それよりも市井のドイツ人少女から見た戦争体験記として読めた。

戦後のベルリンではアメリカ製の歯磨き粉や煙草ですら高値で売買されていたこと、動物園から脱走した動物を食べるほど食糧不足だったこと、敗戦国の少女にとってはただ町を歩き回るだけでも危険が満載だったことなど、当時のドイツの様子が仔細に描かれており、これを日本人が描いたのか!と思うと驚きしかない。そこにいたとしか思えない生々しさ。

途中途中には、ナチス政権下のドイツの姿も描かれており、いかに市井の人たちがナチスの統制をくぐり抜けるのが難しかったか、確かな科学的根拠もない中、どのようにユダヤ人はユダヤ人たらしめられたのか、ということがこれまたリアルに描かれている。この作品を読んで、初めてナチスの本当の恐ろしさを肌で実感できたような気がする。当日のドイツにいたら……と思うと、自分がどのように行動するのか自信が持てない。

異なり記念日

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

みなさんおなじみ「ケアをひらく」シリーズより。淡いブルーの表紙がよい。

異なるからこその不甲斐なさと、喜びに貫かれた日々の記録。違いに悩んでいるすべての人(要は全人類)に贈りたい一冊である。著者の齋藤陽道さんは、日本語を母語とし、聴者の文化で育った。奥さんのまなみさんは、日本手話を母語とし、ろう者の家族に囲まれながら育った。そして、子どものいつきさんは、聴者としてこの世に生を受けた。

三者三様、異なる出自を持った三人が一つ屋根の下で暮らす中で、世界は「ことば」でできていると知る。音声言語としての「言葉」ではなく、眼差しや表情、ちょっとした身振りをすべて包括したものとしての「ことば」。たとえ聞こえなくても、私たちは「ことば」のやりとりをすることができる。

もちろん、綺麗事ばかりじゃない。ろう者であるということには、実際的な不便が生じる。奥さんのまなみさんが倒れたとき、いつきさんがベッドから落ちたとき、聞こえないから気付けない。そして、いつきさんが音楽に対して喜びを表現しているとき、その感情を共有することができない。その冷酷すぎる事実に胸が苦しくなる。しかし、それでも。それでも、著者は「異なることがうれしい」と、まずは言い切ってしまおうと、この本を結ぶ。

読んでいるとき、常に頭にあったのは幼い頃の僕だ。先天性の疾患があり、4歳のときに手術を受けた関係で、僕は小学生のとき運動制限があった。マラソンなど激しい運動のときは必ず見学させられて、そのたびに「お前は普通じゃねえんだよ!」と突きつけられているようで、すごく落ち込んだ。だからこそ、一時期は過度に「普通」になろうとし、周りに合わせ、自分の感情など忘れてしまっているようなときもあった。率直に言って、人と異なっているってことは寂しく苦しいことだ。だから、『異なり記念日』は、そんな苦痛でしかない記憶を持つ僕にとって救いになった。最高。

ゴールデン街コーリン

ゴールデン街コーリング

ゴールデン街コーリング

著者の作品は『不夜城』三部作のほか、『漂流街』『夜光虫』なども読んでおり、脳みそがヒリヒリするようなスリリングな展開が大好きだ。ただ今作は著者の自伝的小説ということで、これまでとはかなり毛色が違う。新宿ゴールデン街を舞台にした青春小説。いわゆる昭和的な人間模様がそこにはあり、観光地化しつつある今のゴールデン街とは、似て非なるものなんだろうと思わせられた。またノワール作家として有名な馳星周が、どこから来たのかを知る意味でも非常に興味深く読めた。

気持ちのいい看護

気持ちのいい看護 (シリーズ ケアをひらく)

気持ちのいい看護 (シリーズ ケアをひらく)

看護師と作家の二足のわらじで活動する宮子あずささんによる看護論。看護師の表も裏も語った「本音の書」という立ち位置かなと思った。

まず、驚いたのは著者の“誠実さ”。「私は、人を徹底的に傷つけてまで言わなきゃならないたいそうなことなんてこの世にはないと思っています。だからこそ、“自分がいまどういう立場で書いているか”とその足下を見つめる作業のほうに、エネルギーを注ぐのです」という言葉の通り、著者はけっこうな紙幅を割き、自分が看護師を志した経緯から病院での経歴、自らの思想的信条などを書き連ねる。どの立場の人が物を言っているか、という「視点」がかなり明確に示された上で論が展開されるので、読者としては内容が非常に理解しやすい。

全く本論とは逸れるけど、この何か言うための「お作法」的な部分、今の時代にこそ超重要なのではないかなと思った。当事者の意見が特権化しがちな昨今、「世の中には、『当事者にならないとわからないこと』と『当事者になったらわからなくなってしまうこと』があるんだと思います」という一説もあり、思わぬところで勇気づけられたり、気付かされたりした。

看護論については、2000年刊行という事情もあり、頷ける部分と頷けない部分があったけど、看護師側のぶっちゃけを知れたことで、患者(自分)偏差値が上がったことは間違いない。看護師にも患者の好き嫌いはあること、自身の専門性に対する懐疑と戦っていること、医者と患者の狭間という立ち位置に苦しむことなど、看護師さんを取り巻く状況をざっくり理解できた。

ただ、当時と今では看護師と患者の関係性はかなり大きく変わっているとも思う。本書には、看護師と患者は個別の関係性を築くべきだ、という暗黙の前提があった上で、「患者さん個人の個別性と、病気からくる普遍性のあいだを行きつ戻りつすることが、『患者さんを見る』ということなのではないでしょうか」と提案しているが、現代において病院の看護師と患者の関係は匿名化されたものが主流になりつつあるように思う。

久しぶりに入院した「外側の目」から看護師さんを眺めると、とにかく言質を取られないように余計なことは一切言わず、病院という大きな生態系を駆動させるために顔の見えない存在に徹しているように見えた(全ての病院がそうかわからないけど)。この変化は何を表しているのか。単純に高齢社会に伴う患者数の増加により、一人の患者にかけられる時間が少なくなったのか、モンスターペイシェント的なクレーマーの増加により、一人の患者に深くコミットすることが忌避されるようになったのか、はたまた両方か。

悲しくてかっこいい人

悲しくてかっこいい人

悲しくてかっこいい人

ミュージシャンであり、作家でもあるイ・ランのエッセイ集。なるべく速く答えを出すことが求められる昨今、著者は決して教訓めいたことを言わず、ひたすら問い続ける。「なぜ、わたしのあごは痛むのか?」「なぜ、ただの友達と会うのはこんなに大変なのか?」「私はどうしたら癒やされるのか?」「何をしたら面白くなるだろう?」等々。

何かを言い切るというのは楽ちんだし、それなりにウケもいいのかもしれないけど、あんまりにも饒舌な人を見ると警戒してしまう。その点、イ・ランは信頼できる。歯切れが悪くても、常に揺れ動きながら問い続けている人は信頼できる。確かなことは何も言えないけど、とにかく疑問だけはたくさんある自分にとっては今後たびたび読み返す一冊になりそう。

CHAVS

チャヴ 弱者を敵視する社会

チャヴ 弱者を敵視する社会

ダイバーシティの重要性が叫ばれて久しいが、その一方で貧困に陥った弱者は「自己責任」の名の下、公然と攻撃される。そんなイギリスの様子を克明に描いた怒りの一冊。

正直、他人事とは全く思えなかった。人種的マイノリティや性的マイノリティに対する意識というのは、昨今かつてないほど高まっており、これ自体は確実によい傾向だと思うが、一方で生活保護受給者だったり、いわゆる情弱と呼ばれる人だったりのことは、どこで合意形成されているのかわからないが、当たり前のようにぶっ叩く人がいる。

どのような環境に生まれるのか、という完全な運ゲーにより、その後の生活が規定されてしまうという端的な事実があるのに、既得権益は自らの立場を守るために「今の地位を勝ち取ったのは自分の努力のおかげだ」と信じて疑わない。貧困、弱者の連鎖は続く。

個人的に興味深かったのは、いかにジャーナリストやメディア関係者の大半が同じような出自を持っているか、というのを指摘したこと。

イギリスでは14人に1人の割合で私立高に進むというが、トップジャーナリストの半数以上は私立高の出身だという。この伝える側の偏りというのは、そのまま弱者への無理解に直結するのは間違いない。だって、いわゆる弱者と呼ばれるような人と接点などないのだから。本人はゴリゴリのエスカレーターなのに、私は弱者のために!みたいなことを言うやつには気を付けよう(まあ最終的に人によるけど)。正直、発言者の出自を見るってのは大切だ。