今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

私が食べた本 #02『「コミュ障」の社会学』

早々に7割ぐらい読み進め、半年ぐらい放置の末、ようやく読み終わった。あまりに自分の関心にズバリの内容で、しかも自分がこれまで抱いてきた違和感をポンポン言語化していくものだから、大事に読もうと思っていたら、大事にしすぎて忘れていた……。

「コミュ障」の社会学

「コミュ障」の社会学

社会というものは、そこから漏れ落ち(かけ)たときに、よく見えることがある。

この一文から始まる本書は、小学生時代に不登校経験を持つ著者の貴戸理恵さんが、「コミュ障」「不登校」という現象を通じ、「生きづらさ」を取り巻く状況の整理、「当事者」という概念の整理、そして生きづらさを抱える人が、自分を曲げることなく社会とつながるにはどうすればいいかを探っていく、というような内容。

「うまくいっていない自分を他者はどう思っているか」という再帰的な視点を発生させるために余計にしんどくなっている。

「コミュ障」という言葉を聞くと、まるで全く空気が読めない存在かのようにイメージしてしまうが、「コミュ障」と名指されることに恐怖を抱いている人というのは、むしろすごく空気を読めるからこそ、その恐怖を抱いていると。確かに、「生きづらさ」を抱えている人というのは、社会規範のようなものを内面化し、その規範から自分が外れてしまうことに強いストレスを覚えるのだろう。著者は、そういった存在のことを「非社会的で、社会的な存在」と書く。

学校・企業・家族という「場」のシステムが揺らぎ始めるにつれて、使用数が多くなってくる。

というわけで、近年よく聞く「生きづらさ」。しかし、そもそも、「生きづらさ」とは何か? 正直、僕はその「生きづらさ」というざっくりした言葉が、何を描写しているのかよくわからず、「生きづらい」を連発する人に対し、クレイマーを見るような眼差しを差し向けてしまったこともあるような気がする……。

「言い換えれば、『生きづらさ』は、個人化・リスク化した人生における苦しみを表す日常語なのだ。

本書を読み、とても腑に落ちたのは、多様化と個人化が進みきった現代において、既存のカテゴリーでは苦しみを受け止めきることができず、もはや主観に根ざした「生きづらさ」としか表現しようのない状況が広がっているということ。たとえば、これまでは同じマイノリティの属性の人なら、おそらく同じような苦しみの体験を持っているため、その属性でつながることが比較的容易にできたが、今はたとえ同じ属性だとしても、同じ体験をしているとは限らない。著者の端的な定義によると、生きづらさとは「個人化した社会からの漏れ落ちの痛み」ということになる。

市場原理の適用領域拡大によるコスト削減を志向するネオリベラリズムのもと、格差・不平等の顕在化と自己責任の強調が同時進行するという事態が生じた。
不登校に対する寛容度は高まり、選択肢は増えた。だが、それは、将来が不安定になること、不利益を被った場合に「自己責任」とされることと引き換えだったと言える。

そういうわけで、本人の主観に根ざした言葉として「生きづらさ」という言葉が多く使われるようになった。そして、個々の「生きづらさ」を生み出す大きな構造の一つに、「自己責任」と言われてしまいやすい現状があるのだと思う。時代が進むにつれ、昔とは比べ物にならないくらい選択肢は増えたと思う。人々は当たり前に自分のメディアを持ち、必要とあらばクラウドファンディングなどを通じ、金銭的な援助を得ることも可能だ。

しかし一方で、選択肢や手段が整った(ように見える)ぶん、それでもうまくやれないのは、「自己責任」という圧力は確実に強まっているように思う。実際は、そもそも人により可視化されている選択肢の数は違うし、何かサービスを使おうと思ったときに必要な資質も千差万別なわけで、何でも「自己責任」にすることのおかしさは明らかにも関わらず。

「当事者である自己」を重視し、「私のことはわたしが一番よく知っている」と専門家の権威を相対化してみせるこの視覚から、私は「自分の問題を自分で研究する」ということを教わった。

こうした状況の中、「生きづらさ」に抗う強力な手立てとして「当事者研究」がある。僕自身、この「当事者研究」には直近でかなり救われた。そもそも「自分のことは自分が一番よく知っている」という発想自体、他者から測られる、値踏みされることへの強烈な対抗になっているように思う。

僕の経験を書くと、昨年末身体を壊したときに、僕は治療方針を巡り、医師と大バトルを繰り広げた。こちらの意志や希望を全く無視し、ただただガイドラインに流れ作業的に当てはめていく医師の姿勢は、全くもって承服しかねるものだった。自分の身体に介入され、自分の身体を他者に管理されるというのは、すさまじいストレスだ。しかし、医学的知識の圧倒的な非対称性の前に、どう抗えばいいのかわからなかった。

そんなとき、僕は当事者研究を思い出した。「私のことはわたしが一番よく知っている」「私の苦労を取り戻す」といったステートメントに、自らの手に主権を取り戻す上で大きな勇気をもらった。そして、自分の身体を研究対象として相対化し、インターネットを通じてほかの患者と対話を重ねることにより、僕の苦しみやストレスは徐々にやわらいでいった。自分も自信を持って、意見を述べていいのだと思えた。結果、自分の中に明確な意志のようなものが生まれ、自分が治療の舵を取り、納得いく方法で治療することができた(自分が納得するために、どれだけエネルギー必要なんだとは思った)。

注目しているのが、「克服」という「結末」を持たず、起承転結の見えないまま、一人ひとりの現状にもとづいて「終わりのない語り」を語り続ける、いわば一人称単数の「私の語り」の集積でしかありえないような何かである。
「自己を語りえない」というしんどさを抱えていることが、「生きづらさ」を少なくとも部分的に構成している。
人が選択の主体になるためには、それに先立って自己を生み出す場や関係性が必要だということだった。逆説的だが、人は個人化されすぎると、個人であることが難しくなるのだ。

人は、対話や関係性の中にこそ、自己の輪郭を掴むのではないかという指摘。その意味で、医師と僕の間には対話は成立していなかった一方で、ネットの向こう側の人たちとはメッセージを通じて対話をし、初めて苦しみを受け止めてくれた。國分功一郎先生の「欲望形成支援」にも通じるような気がする。対話は、その人の結果として「意思」ではなく、その前の「欲望」を引き出す。

現代において、生きづらさと全く無縁の人はいないと思う。断片的な語りを通じ、さまざまな相手と対話を重ね、そこに自分の意志のようなものを確認し、それぞれが行動していく。語りというのは物語化されている必要はなくて、大切なのは「キープ・オン」なんじゃないか。というふうに読んだ。まだ全然消化しきれていない感じだけど。おしまい。