今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

待ち時間の長い病院だからこそ生まれる「対話」について

今、定期的に通っている病院の待ち時間は死ぬほど長い。この間は15時に予約していたのに、実際に診察されたのは17時を大きく過ぎていた。そんなとき、以前までの僕であれば「だったら最初から遅れることを見越し、予約時間を調整しろよ」と思っていただろう。いや、思うだけに留まらず、苦情の一つや二つ入れていたっておかしくない。時は金なり的な価値観を深くインストールした僕は、何よりも時間を浪費する感覚に生理的とも言える嫌悪を覚えるのだった。

しかし、今、病院の待合室で腰掛ける僕には少し違った景色が見えている。待ち時間が発生するということは、とどのつまり、医師と患者が十分に時間をかけて対話していることにほかならないと知ったからだ。2年前の心臓発作の治療過程において、僕は対話こそ治療の要に他ならないと考えるに至った。

当初、僕が入院していた病院は心疾患の権威と呼ばれるような医師を数多く排出してきたいわゆる名門。特に小児心疾患においては、ある時期までほかに比較対象がないほど先をいっており、僕自身も前々からお世話になっていたため、発作という不測の自体が起きたとき、その病院が最有力候補に上がってくるのはごく自然な流れだった。

しかし、緊急入院することになり数週間、僕の身体は24時間常に病院に在るというのに、医師と対話する機会はごく限られていた。もちろん、口うるさい僕に何度か時間を取ってくれはしたものの、それは対話というよりも医師から僕への伝達であり、その証拠に僕はほとんど自分の仕事のこと、生活のことを話した記憶がない(中には素晴らしい看護師さんもおり、その方は常に話を聞いてくださった)。

しまいには、何度も医師との対話を求める僕に「先生も外来で忙しいから」と、まるで胡散臭い営業電話を断るような口ぶりでいなす医療従事者も少数ながらいた。そして、当の僕も僕で、「まあ俺の話を長いこと聞いたところでお金になるわけでもないしな……」と半ば納得してしまうのであった。生死をさまよう状態を脱し、今後の人生の分岐点とも言える治療の渦中にいてなお、経済の声が囁いてくるのだから恐ろしい。こいつといつか折り合いを付けられる日は来るのだろうか。

今となっては、そうした対応も一方的に責められるものとは思っていないし、単純に構造に依るところが大きいと理解できる。しかし、患者の生活というレイヤーで話をする機会が極端に限られていること、そしてそれすらも仕方ないと思えるほどには、僕の頭に会計的な発想がインストールされていることに驚いた。

その後、僕は同病院の治療方針に納得いかず、いわゆる「ドクターショッピング」の状態に陥った。疾患の性質上、僕が向かった病院のほとんどは大学病院。とにかく建物はきれいだし、病院内には小洒落たカフェが設置されているところも少なくなかった。ある病院では、診察の順番を知らせる小型のデバイスを配っているところもあり、診察までの時間を「有効活用」できるようになされていた。

ただ、そうした病院も一様に診察の時間は短かった。別に診察時間が10分を超えるとブザーが鳴るわけでもなんでもないわけだが、明らかに切り上げたがっている態度を示されると、こちらとしても心が砕かれていく。また、たいして僕の顔も見ず紹介状に目を落とし、ろくすっぽ話を聞かないという人もいた。当然、それらの病院でくだされた治療方針は納得いくものではなかった。

そうして最後に行き着いたのが、もはや東京でもないとある大学病院。そこで一通りの検査を受け、待合室に向かうと、モニターには「120分遅れ」の文字が点滅していた。遅れが出るということは、予想と実態の乖離があったわけで、今日日ここまで精度の低い予想のもと病院運営を行うなど信じがたかった。しかしそれでも自分に選択肢はない。持っていた本を取り出し、ひたすらに待った。結果、15時の予定だったところ、実際に診察が始まったのは18時を過ぎていた。

ひたすらに時間を浪費することに嫌悪を覚えていた僕は、ほとんど怒り心頭のような有様で入室し、極めてふてぶてしい態度で話を始めた。すると、その医師は今の仕事状況や生活のことなど仔細に話を聞き始め、僕のしち面倒な疑問に対しても、懇切丁寧に話をしてくれた。それどころか、「他の先生にも話を聞いた方が良いから」とその場で別に医師に電話をし、部屋まで用意してくれる有様だった。呼ばれた先生は「◯◯先生は強引なんだから」と少し苦笑いしていたが、僕の疑問が尽きるまで話を聞いてくれた。気付けば涙が溢れていた。

最終的に僕はその病院で治療することを選択し、ほかの病院で示された治療方針とは全く異なる治療のもと、無事に社会復帰することができた。ここで重要なことは、治療方針が違ったという単純なものではない。ポイントは、患者の人生に耳を傾け、その患者にとっての「病」の位置づけをし、そこから治療方針を導き出すというプロセスにある。最初に診察に対応してくれた先生の口癖は、「beyond the guidelines(ガイドラインのその先に)」だった。

治療とは対話でしかありえない。今の僕は、そう確信している。もちろん、治療することで完治の見込める外傷などはその限りではないかもしれないが、その後も多かれ少なかれ病と付き合う必要性が生じるのであれば、その病を背負っていくのは患者だ。しかし、医学の言葉だけでは病を背負うことができない。だから、その病がその患者に人生のなかにどう位置づけられるのか、そのことを一緒に探ること。その目的のもとに対話を重ねることが肝要なのだ。

そして、対話を重ねることは、時間を重ねることに他ならない。それを知っているから、今の僕は、待ち時間の裏にある患者と医師の対話を透かし見るのだ。