今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

人生に“少年漫画”は必要だ

お盆につき、久しぶりの帰省。帰るまではそこそこテンションも上がっているわけだが、いざ実家に着くと毎度のことながら暇だ。そんなに親兄弟に話すこともないし、かといって勉強机の残った部屋で仕事する気にもなれない。必然、いつもダラダラと昔の漫画をベッドで寝そべって読むことになる。

今回は『NARUTO』に決めた。『DEATH NOTE』や『刃牙(バキ)』なんかは、二年に一度くらいの割合で読み返しているような気がするんだけど、『NARUTO』は超久々。下手したら高2ぶりぐらいのものだと思う。

しかも、『NARUTO』は全巻そろっておらず、確認したら間に歯抜けがありつつ、持っていたのは1巻から54巻までだった。大学生になり、一人暮らしをするようになってから、部屋のスペース的な問題でほとんど漫画の単行本は買わなくなっていたから、2011年ぐらいまでのものしかないというわけだ。

それでも、暇つぶしになればいいという低めのモチベーションで雑に1巻から読んでみる。この頃のサスケは可愛いもんだよな〜などと思いつつ、4巻5巻と読み進めていく。すると、霧隠れの里に護衛に行き、再不斬&白と対決するあたりから急に物語の深みが増し、中忍試験が始まる頃には、もう夢中。

大蛇丸の気持ち悪さは今読んでも健在だし、我愛羅の過去編なんて涙なしには読めない。サスケが強さを求め、大蛇丸のところに出向いてからは、それまで脇役だと思っていたチョウジやシカマルなんかも輝き始め、君麻呂など魅力的な新キャラも目白押し。あっという間に1日で54巻まで読み進め、居ても立ってもいられなくなった私は、社会人パワー丸出しで最終巻まで大人買い

NARUTO』が最終回を迎えたのはニュースで知っていたけど、まさかここまで重厚な展開になっているとは! 結果的にサスケの娘・サラダが主人公となる外伝まで読んでしまった。

結論、人生に少年漫画は必要不可欠である! ジャンプ連載作品の三大要素に「友情・努力・勝利」があることはつとに有名だが、こういったプリミティブな要素は普通に人生を生きていると向き合う機会が年々減っていくと思う。僕はまだ社会人3年目だけど、それでも1年目にあった若者特有の万能感みたいなものは少なくなり、日に日に自分のサイズ感みたいなものがわかり、青臭く根源的な問いかけをしなくなる。

しかし、『NARUTO』に出てくる人物は違う。ナルトや我愛羅などの人柱力は、自分の存在意義に悩み、たびたび「自分が生きている理由とは?」という問いにぶつかる。大人の勝手な都合で尾獣を宿されたにも関わらず、周りの人間から忌み嫌われている我愛羅は、生きる理由を模索し続け、その結果「他者を殺すことで、生の実感を得る」という結論を導き出す(結果的に、ナルトとのつながりが生まれることで、その考えは否定されることになるが)。

ロック・リーとネジの関係性は、「才能とは、努力とは何か?」という問いを突きつけてくる。忍者にも関わらず、全く忍術のセンスがないリーは、それでも忍者になることを諦めることなく、唯一の選択肢・体術を極める道を選ぶ。ネジは圧倒的な才能を持つにも関わらず、家柄に縛られた結果、一時は人の運命は決まっていると悟る。

サスケやオビトなどのうちは一族は、「平和とは何か?」という問いを突きつける。報復が報復を生み、戦いばかりの世界を変えるために、サスケは歴史を一掃しようとし、オビトは世界全体に幻術をかけ、偽りの平和を作ることを夢想する。ほかにも、四代目火影の存在は、次の世代に託すことの重要性を投げかけてくるし、カブトの存在は孤独の恐ろしさを投げかけてくる。

NARUTO』を始めとする少年漫画は、作中の人物たちの生き様を通じて、日常生活を送っていると、大人になっていくと、つい忘れがちな根源的な問いかけをしてくる。音楽にしても、映画にしても、優れた作品は現実の世界を相対化し、視点をフレッシュにさせてくれるものだと思うが、少年漫画ほど直接的なものも少ないと思う。今週、僕は『週刊少年ジャンプ』を買った。

さよなら青春

7月4日。チャットモンチーのラストワンマンにあたる「CHATMONCHY LAST ONEMAN LIVE ~I Love CHATMONCHY~」に行ってきた。チャットモンチーのメジャーデビューは2005年。ファーストフルアルバム『耳鳴り』が発売されたのは2006年。当時、僕は中学生。『シャングリラ』で彼女たちを知り、ガールズバンドとの出会いも彼女たちが最初だったんじゃないかと思う。高校のときに組んだバンドで初めてコピーした楽曲は『風吹けば恋』。卒業ライブで思い出されるのは友人のガールズバンドが演奏していた『サラバ青春』。未だにチャットの楽曲を聴くと、高校時代の記憶が瑞々しく蘇る。

ドラムの高橋久美子が脱退したときには、音楽的な興味がほかに移っていたから、驚きはしたものの、そこまで強くショックを受けたわけではなかった。しかし、その後の2人体制になってから初めてのシングル『ハテナ』のMVを見たとき、気付けば号泣していた。ちょっと信じられないぐらいに。バンドにおける核となるドラムが脱退し、当然すぐさまサポートメンバーでも迎えるのかと思いきや、彼女たちは新たなメンバーもサポートも入れなかった。そして、たった2人で最高の音楽を鳴らしていた。ベースのあっこちゃんがドラムを叩いているのだから、正直うまいわけでは決してない。ドラミングの幅の狭さが、楽曲展開を制限してしまっているとも思う。それでも、彼女たちの音楽は胸を打った。なにか音楽の根源的な力にあふれている気がした。僕にとって彼女たちは、バンドマジックを感じさせてくれる数少ないバンドなのだ。

そんな彼女たちの完結。過去のヒットナンバーに終始することなく、新譜中心のセットリストやストリングスを迎えてのライブというところに、なにか彼女たちの音楽に対する態度が強く表れていたように思う。あくまで最新系の彼女たちを見た。それでも、後半は過去の楽曲も演奏されるようになり、『風吹けば恋』『ハナノユメ』『シャングリラ』などを聴いていると、自然と自分の過去に頭がトリップする。高校時代の記憶と目の前の光景がクロスする。最後は、やはりと言うべきか『サラバ青春』。大槻ケンヂか誰だったかが、青春の終わりは学生時代に好きだったバンドが解散するときに訪れる、という言葉を残していたと記憶しているが、まさにその通り。気付けば20代も後半に差し掛かり、「青春」なんていう言葉を想起することも少なくなった。青春をモチーフにした楽曲が刺さることも、最近ではほとんどなくなった。しかし、『サラバ青春』を聴けば、すぐに青春時代である高校時代を思い出せる。そして、それによって現在の状況と、当時思い描いていた未来との距離感に驚く。自分の原点はどこにあるのか。このライブを通じ、僕は自分の足元を見つめ直した。そして、そんな機会を与えてくれる彼女たちは、もうすぐいなくなるのだ。青春の終わり。

途中、最近の動向を追えていない僕は、ハードすぎるドラミングに巨大なクエスチョンマークが灯った瞬間もあったが……最初と最後、ステージ上にいたのは2人だけだった。それが、全てだと思う。チャットモンチーは、何でもない地方出身の女性3人(2人)が、ひとたびバンドを組み、音楽を鳴らせば、それまでの世界を変えられることを教えてくれたんだ。ロックンロールマジックの体現者・チャットモンチー。さよなら。