今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

自分の機嫌は自分で取れるか?

先日、仕事をしながらポッドキャストを聞いていると、パーソナリティが「自分の機嫌を自分で取ることが必要ですよね」と発言し、アシスタントのアナウンサーがその発言に力強く同調するという一幕があった。数年前であれば、「確かにそうだよな」と納得し、気にも留めない発言だったかもしれないが、いつの間にかこの発言に違和感を覚えるようになっている自分に気付いた。

もちろん、自分なりのセルフケアの方法を持っておくことは重要だ。何らかの厄介事に遭遇し、ストレスがたまっているとき、自分に適したケアのツールを認識しておくことは、日々の生活を送ることを強力に支援してくれるに違いない(前に出したZINEでもセルフケアについて聞くアンケート企画をやったぐらいだ)。

他方で、自分の機嫌を自分で取ることは、案外難しいことでもある。この考え方の背景には、「自分のことは自分が一番よく知っている」という前提があるように思われるが、ただでさえ精神的に落ち込んでいるとき、何が自分にとっての悩みの種になっているかを同定し、その上で適切な対処を行うことができる人がどれだけいるだろうか。

北海道浦河べてるの家で生まれた「自分助け」の技法に、当事者研究というものがある。べてるの家は、1984年に設立された精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点だ。数年前、夏に毎年行われる「べてるまつり」に訪れたことがあるが、新千歳空港からバスで2時間ほどの位置にあり、事前に想像していた街の風景とのギャップに驚いた覚えがある。

そんな場所で2001年に生まれたのが、当事者研究である。今や東大のなかにも講座があり、全国各地に団体が生まれるなど有名になりつつあるが、そこではお互いに自らの「困りごと」をテーマとした研究を他者に向けて発表し、それぞれの経験を分かち合いながら、その解釈や対処法をともに考えていくことが志向される。前提となっているのは、「自分のことは自分が一番よく知らない」ということだ。だからこそ、一人で黙々と困りごとに向き合うのではなく、外部に向けて開くことで、ともに自らの体験の記述を試みる。

僕自身は、べてるで実践されているような文字通りの「当事者研究」を実践しているわけではないが、数年前に大病してからというもの、類似した「病いの経験」を持つ他者に話を聞くことをライフワークとしている。インタビューでは、互いに自らの経験を語り合うような状況になることもしばしばあり、そんなとき自分が長いこと抱え込んできた悩みの輪郭が見えてくるような感覚を受けることが多々ある。他者を介することで、それまで自分にとって不可視化されていた悩みが顔を出すのだ。自らの悩みを位置づけし直すことは、それ自体が治療的な効果をもたらすものであると痛感している。また、多数の類似した他者に話を聞く過程で、自らの悩みが自分個人の問題ではなく、社会の問題であることに気付くことも少なくない。仮に悩みの根幹に構造的な問題が潜んでいるのだとすれば、自分一人で機嫌を取ることは難しい。仮にその場を乗り切ったとしても、本質的な問題解決にはつながらず、それは単に社会に適応しただけのことに過ぎない。

新型コロナウイルスが流行し、他者とのリアルな交流が難しい昨今、確かに自分で自分の悩みに対処することが求められている側面はあるかもしれない。ただ、それは数ある選択肢のうちの一つでしかない。もしも、常に自分の悩みを自力で解決し、ご機嫌でいることが個人の標準スキルのように捉えられてしまえば、かなり辛いことになるのは目に見えている。ときに、自分のことは自分が一番よくわからず、ともに自分を探っていく作業が必要になることもあるのだ。