今日もルノアールで

ルノアールで虚空を眺めているときに更新される備忘録

籠城日記 #3

炊飯器がないことに気付いたから買った。数年前、炊いたのを忘れて10日ほど放置していたら、どす黒い虫がわいており、炊飯器ごと捨てたのであった。炊飯器さえあれば、外出の頻度は確実に減るだろう。炊飯器がないと、籠城するにも限度がある。木曜日に届く予定。一緒にお米と、マンナンヒカリとかいうダイエット食品(?)を買った。友達がこいつで痩せたらしい。

今日届いた『予測がつくる社会』という本。最近は、自分のしんどさは管理やコントロールを欲望する社会にあるのかなと思っており、人の未来に対する認知や態度に強い興味があるのだけどドンピシャな内容。第1章から未来についての研究を概観できる感じがあり、めちゃくちゃ目が見開かれる。期待の社会学とか、そんな分野もあるのかとか、ギデンズは「未来の植民地化」という言葉を残しているらしく、どこでもギデンズ出てくるなと思うなどした。もっと硬いかと思ったけど、思ったよりも平易な文章で書かれており読みやすい。水曜日はこいつを読破しよう。

そういえば、数年前はばんばん外れ本を買ってしまっていたのだけど、頼みの綱だと思って買った本に裏切られたときの怒りって忘れないな。Twitterを見ていたら、3年ぐらい前に本で俺のことを裏切った著者のツイートが流れてきて、適当なことばっかり言ってんじゃなえよと当時の怒りが即時再生されてそう思った。本の恨みはでかい。

籠城日記 #2

朝から大量の書籍が届く。「クイック・ジャパン」やら、仕事で使う資料やら。周りの友人に話を聞くと出費が減ったという人が多いけど、自分の場合は圧倒的に増えている。2日に1回は何かしら本をポチっているし、在宅環境を整えるためにデスクやモニターも新調した。もともと集中力が長く続かないから、ちょっとでも気が散る作業環境に耐えられないのである。おかげでだいぶ快適になった。デスクは広いに越したことない。

最近毎日のように湯船に浸かっている。風呂のリラックス効果は侮れない。いつもはジップロック的なものに入れたiPhoneでアルピーのラジオを聴くか、しもふりチューブを観ているのだけど、今日今更Kindleが防水であることに気付いた。湯船に浸かりながらの読書の圧倒的快楽よ。『山本さんちのねこの話』を楽しく読む。うちの猫(ひじき)は、いつも僕がお風呂に入っているとき、脱衣所で待機してくれている。大変可愛い。何にせよ風呂読書はいい。一日の楽しみを発見してしまった。

籠城日記 #1

昼前に起床。目玉焼きトーストをつくる。焼いてから乗せるのではなく、生のまま乗せてトーストする方式で挑戦しようと意気込む。マヨネーズで土手をつくってから乗せようとするのだけど、土手がなんの効力も発揮せず、するすると生卵がトーストの外に飛び出す/戻すというのを3回ぐらい繰り返して、やっと焼く。焼きすぎて黄身がカチカチになって全然おいしくなかった。出足が悪い。

外出。クリーニングを取りに行く。レジの間にあるビニールシートのせいでほとんど何を言っているのか聞き取れなかったけど、見たらほとんど汚れが落ちていなかった。真っ白なスウェットの黒ずみが黒ずんだまま帰ってきた。クリーニング出して満足した試しがねえわと思いながらスーパーに行く。時間帯が悪かったのか激混み。あーあと思いながら茄子とかトマトとか豆腐とかを買う。1年前ぐらいに病気をやってるから、本当に今はコロナが怖くて仕方ない。コロナにかかるのも嫌だし、持病が再発するのも怖い。ダブルの恐怖。今、基礎疾患持っている人の恐怖って半端ないと思うし、死亡のニュースとかを友人と話していて、「でも、その人持病あったらしいよ」とか言われると、疎外感を覚える。健康な自分は大丈夫とか思ってんじゃねえよと思う。

帰宅後、ひたすら『マツタケ』を読む。マツタケを通して今の進歩主義的な世界を考察していく。最高。並行して読みさしのまま放っておいたティム・インゴルドの『ラインズ』を読む。めっちゃ難しい。遅々として進まない。途中、英語の勉強をする。1週間ほど前から始めたスタディサプリ。スキマ時間にサクッとできるのが良い。正直、今机に向かってガリガリやるのは難しい。

ウルトラマンキッズ』を観た。子どものころ、なぜか風邪になると必ず観ていた。「うわ、この話好きだったな」とか思って観始めたら、ほとんど全ての話そんな感じ。今思うと、ウルトラマンとバルタン星人が同じ学校に通って、一緒に旅をするってすごい設定だな。だいたい懐かしさパワーでいいんだけど、ところどころツッコミどころのあるセリフとかが飛び出すから、「いや、普通に犯罪ですやん」とかツッコミながら見ている。

毎日疲れる。他者との関係性で自分ができるのなら、今は基本的にひたすら自分と接する状態なわけで、その窮屈さがすごい。どこにも行けない感じがある。抑うつ傾向が確実に高まっている。やばいからベランダに椅子でも出してお酒でも飲もうかなと思ってベランダを見たら、来週出す予定の粗大ごみが鎮座していて諦めた。舐達麻のMVを観て気持ちを落ち着ける。「やりたいようやる じゃなきゃ頭狂うのが普通」という感じでやってゆきたい。

闘病明けの僕を救ったThe 1975

昨年末、心臓の病気が発覚し、ぼくは長期の入院生活を余儀なくされた。幸いにも、現在は特段不自由もなく生活を送ることができているが、「この治療の選択と結果ひとつで、その後の生活が大きく変わる」という岐路に何度も立たされた闘病生活を経て、今までだったら気にも留めないようなことがたくさん目につくようになった。

タイムラインに流れてくる罵詈雑言、あまりに想像力に欠いた政治家の暴言、仲の良い同僚との飲み会での一言にすら、時には差別的なニュアンスを感じ、気分が沈んでしまうようになった。

あらゆる局面における弱者と強者は、本人の預かり知らない「たまたま」一発で簡単に消し飛ぶ脆いもの。そういう「入れ替え可能性」みたいなものを肌で実感したことにより、僕の見ている世界はすっかり変わった。分断を乗り越えるにはどうすればいいのか? そのことばかり考えるようになった。

そんな時間を過ごす間、常に聴いていたのはThe 1975。以前からつまみ食い的に聴いてはいたものの、この機会に改めて聴いてみると、何か共通した問題意識を持っているように思えた。

特に『Love It If We Made It』は、世界規模で進行している分断について鋭く切り込んでいる。「Fuck your feelings」というトランプ大統領の選挙キャンペーンに使われた言葉を引用し、異なる他者への想像力を欠いた現状を皮肉り、「Modernity has failed us」と現代を嘆き、「I'd love it if we made it」と悲痛に叫ぶ。

決してポジティブなことを歌っているわけではない。しかし、僕はどうしようもなく救われてしまった。なぜか。その理由は、サマーソニックでのライブで明らかになったような気がする。

プレステロゴのキャップとパーカーの出で立ちで颯爽と登場したマシューは、日本酒瓶片手に『Give Yourself A Try』から『TOOTIMETOOTIMETOOTIME』の流れで観客を煽る。会場全体のボルテージは一気に高まる。

かと思えば、その後の『Sincerity Is Scary』ではおなじみの帽子を被り、遠い目をして煙草をふかし、『I Like America & America Likes Me』では狂気の様相で舞台を動き回り転がりながら、何かにとりつかれたようにオートチューンのかかったボーカルで叫ぶ。声をあげること、現状に異議申し立てすること、それだけのことなのに、なぜかままならない。そんな現状にクリティカルに響いた。

そして、『Love It If We Made It』は拳を突き立て、鬼気迫る表情でがなり立て、最後は『The Sound』を高らかに歌い上げ、会場全体を一つにした。間違いなくあの瞬間、音楽を通した対話が成立していた。

たった1時間ほどのライブの最中、マシューの表情は1秒単位でくるくると変わった。現状を憂慮し、怒り、泣き叫んでいるかと思えば、イカれた表情で煙草をふかし、その次の瞬間にはとびきりの笑顔を見せている。海を超えた遠い異国で生まれた一人のロックスターも、極東の片隅で日々必死に生活を送っている僕も、同じようなことに頭を悩ませ、それでも対話の可能性を諦めず、毎日を過ごしているんじゃないか。その端的な事実に、どうしようもなく救われていたんだと思う。

私が食べた本 #02『「コミュ障」の社会学』

早々に7割ぐらい読み進め、半年ぐらい放置の末、ようやく読み終わった。あまりに自分の関心にズバリの内容で、しかも自分がこれまで抱いてきた違和感をポンポン言語化していくものだから、大事に読もうと思っていたら、大事にしすぎて忘れていた……。

「コミュ障」の社会学

「コミュ障」の社会学

社会というものは、そこから漏れ落ち(かけ)たときに、よく見えることがある。

この一文から始まる本書は、小学生時代に不登校経験を持つ著者の貴戸理恵さんが、「コミュ障」「不登校」という現象を通じ、「生きづらさ」を取り巻く状況の整理、「当事者」という概念の整理、そして生きづらさを抱える人が、自分を曲げることなく社会とつながるにはどうすればいいかを探っていく、というような内容。

「うまくいっていない自分を他者はどう思っているか」という再帰的な視点を発生させるために余計にしんどくなっている。

「コミュ障」という言葉を聞くと、まるで全く空気が読めない存在かのようにイメージしてしまうが、「コミュ障」と名指されることに恐怖を抱いている人というのは、むしろすごく空気を読めるからこそ、その恐怖を抱いていると。確かに、「生きづらさ」を抱えている人というのは、社会規範のようなものを内面化し、その規範から自分が外れてしまうことに強いストレスを覚えるのだろう。著者は、そういった存在のことを「非社会的で、社会的な存在」と書く。

学校・企業・家族という「場」のシステムが揺らぎ始めるにつれて、使用数が多くなってくる。

というわけで、近年よく聞く「生きづらさ」。しかし、そもそも、「生きづらさ」とは何か? 正直、僕はその「生きづらさ」というざっくりした言葉が、何を描写しているのかよくわからず、「生きづらい」を連発する人に対し、クレイマーを見るような眼差しを差し向けてしまったこともあるような気がする……。

「言い換えれば、『生きづらさ』は、個人化・リスク化した人生における苦しみを表す日常語なのだ。

本書を読み、とても腑に落ちたのは、多様化と個人化が進みきった現代において、既存のカテゴリーでは苦しみを受け止めきることができず、もはや主観に根ざした「生きづらさ」としか表現しようのない状況が広がっているということ。たとえば、これまでは同じマイノリティの属性の人なら、おそらく同じような苦しみの体験を持っているため、その属性でつながることが比較的容易にできたが、今はたとえ同じ属性だとしても、同じ体験をしているとは限らない。著者の端的な定義によると、生きづらさとは「個人化した社会からの漏れ落ちの痛み」ということになる。

市場原理の適用領域拡大によるコスト削減を志向するネオリベラリズムのもと、格差・不平等の顕在化と自己責任の強調が同時進行するという事態が生じた。
不登校に対する寛容度は高まり、選択肢は増えた。だが、それは、将来が不安定になること、不利益を被った場合に「自己責任」とされることと引き換えだったと言える。

そういうわけで、本人の主観に根ざした言葉として「生きづらさ」という言葉が多く使われるようになった。そして、個々の「生きづらさ」を生み出す大きな構造の一つに、「自己責任」と言われてしまいやすい現状があるのだと思う。時代が進むにつれ、昔とは比べ物にならないくらい選択肢は増えたと思う。人々は当たり前に自分のメディアを持ち、必要とあらばクラウドファンディングなどを通じ、金銭的な援助を得ることも可能だ。

しかし一方で、選択肢や手段が整った(ように見える)ぶん、それでもうまくやれないのは、「自己責任」という圧力は確実に強まっているように思う。実際は、そもそも人により可視化されている選択肢の数は違うし、何かサービスを使おうと思ったときに必要な資質も千差万別なわけで、何でも「自己責任」にすることのおかしさは明らかにも関わらず。

「当事者である自己」を重視し、「私のことはわたしが一番よく知っている」と専門家の権威を相対化してみせるこの視覚から、私は「自分の問題を自分で研究する」ということを教わった。

こうした状況の中、「生きづらさ」に抗う強力な手立てとして「当事者研究」がある。僕自身、この「当事者研究」には直近でかなり救われた。そもそも「自分のことは自分が一番よく知っている」という発想自体、他者から測られる、値踏みされることへの強烈な対抗になっているように思う。

僕の経験を書くと、昨年末身体を壊したときに、僕は治療方針を巡り、医師と大バトルを繰り広げた。こちらの意志や希望を全く無視し、ただただガイドラインに流れ作業的に当てはめていく医師の姿勢は、全くもって承服しかねるものだった。自分の身体に介入され、自分の身体を他者に管理されるというのは、すさまじいストレスだ。しかし、医学的知識の圧倒的な非対称性の前に、どう抗えばいいのかわからなかった。

そんなとき、僕は当事者研究を思い出した。「私のことはわたしが一番よく知っている」「私の苦労を取り戻す」といったステートメントに、自らの手に主権を取り戻す上で大きな勇気をもらった。そして、自分の身体を研究対象として相対化し、インターネットを通じてほかの患者と対話を重ねることにより、僕の苦しみやストレスは徐々にやわらいでいった。自分も自信を持って、意見を述べていいのだと思えた。結果、自分の中に明確な意志のようなものが生まれ、自分が治療の舵を取り、納得いく方法で治療することができた(自分が納得するために、どれだけエネルギー必要なんだとは思った)。

注目しているのが、「克服」という「結末」を持たず、起承転結の見えないまま、一人ひとりの現状にもとづいて「終わりのない語り」を語り続ける、いわば一人称単数の「私の語り」の集積でしかありえないような何かである。
「自己を語りえない」というしんどさを抱えていることが、「生きづらさ」を少なくとも部分的に構成している。
人が選択の主体になるためには、それに先立って自己を生み出す場や関係性が必要だということだった。逆説的だが、人は個人化されすぎると、個人であることが難しくなるのだ。

人は、対話や関係性の中にこそ、自己の輪郭を掴むのではないかという指摘。その意味で、医師と僕の間には対話は成立していなかった一方で、ネットの向こう側の人たちとはメッセージを通じて対話をし、初めて苦しみを受け止めてくれた。國分功一郎先生の「欲望形成支援」にも通じるような気がする。対話は、その人の結果として「意思」ではなく、その前の「欲望」を引き出す。

現代において、生きづらさと全く無縁の人はいないと思う。断片的な語りを通じ、さまざまな相手と対話を重ね、そこに自分の意志のようなものを確認し、それぞれが行動していく。語りというのは物語化されている必要はなくて、大切なのは「キープ・オン」なんじゃないか。というふうに読んだ。まだ全然消化しきれていない感じだけど。おしまい。